漆と仏教

仏教の伝来

仏教が日本に伝わったのは538年、百済の聖明王が朝廷に釈迦像と経典を献上した時とされています。日本では初めは政治勢力に利用されながら、権力者に支持・保護されて徐々に広まっていきました。

仏教を支持した聖徳太子は、仏教の習得のために中国に遣隋使を派遣しました。仏教は国家鎮護の目的で、聖徳太子から奈良時代の各天皇まで国家機能の一部として奨励されることになります。その結果、僧侶は官僚としての身分を得て、公費で寺を造営・管理していきました。当時の僧侶の役割は国家の安泰を祈祷することが第一の目的となりました。

奈良時代に入ると、国家鎮護を目的とした仏教の研究はますます過熱し、聖武天皇は各地に国分寺を建立し、奈良には大仏も建立しました。遣唐使もさかんに派遣され、留学生によって南都六宗がもたらされ、奈良の都には大寺院が次々に建立されていきました。
当時の仏教は、現在と違い民衆とはかけ離れた存在であり、各地に建立された寺院も寺というよりは大学の研究室のような存在でした。

国家とは一定の距離を置く本格的な仏教宗派が誕生したのは、平安時代に最澄と空海という2人の天才が自らを開祖とする新仏教宗派を開いたことによります。

天台宗
伝教大師最澄
804~805年に遣唐使と共に渡唐し、天台教学・真言密教・禅法・戒律(四宗相承)を学び帰国、比叡山延暦寺で日本天台宗を開く。日本天台宗では、中国天台宗の天台教学のみならず、四宗相承の教えを説いている。

真言宗
弘法大師空海

804~806年に唐に留学し密教を専門に勉強・修行して帰国し、高雄山寺で真言密教を布教した。

後に高野山に金剛峰寺を開き、日本真言宗として三蜜修行により即身成仏が達成できると説いた。


鎌倉・室町時代になると幕府は新仏教の穏健派である臨済宗と新義律宗を大いに保護し、その保護・統制機関として「禅律方」が設立されました。特に臨済宗は室町幕府の「官僧」と化し全国的に貴族・武士に広まり京都には金閣寺・銀閣寺を建立しました。

一方で阿弥陀仏のみを信じて「南無阿弥陀仏」と唱える事で貴賤上下や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生する事ができると説いた親鸞の教えは、第三代覚如によって浄土真宗教団を形成し諸国門徒の統一を図ります。

室町時代に蓮如が出ると、浄土真宗は爆発的に発展し、社会的権力も得ることから幕府からの圧力がかかり一向一揆の大勢力となっていきました。こうして混乱した社会の中で増大・過激化した仏教勢力は、信長・秀吉による大弾圧のもと屈服させられます。江戸幕府は寺の軍事力を削ぐために寺院諸法度を制定し、キリシタン禁制と合わせてすべての国民を仏教徒とし仏教は国教となっていったのです。


漆と仏像

仏像の成り立ち

仏教の信仰対象である仏の姿を表現した仏像は、本来は仏教の開祖である釈尊、釈迦如来を表すものでしたが、大乗仏教の発展に合わせて弥勒仏・阿弥陀如来など様々なものが作られるようになっていきました。仏像とは立体的に表された丸彫りの彫像のことで、金属製・石造・木造・塑造・乾漆造など様々なものがあります。

自然の摂理を観ずる哲学的な側面の強かった初期仏教では、「自灯明・法灯明:自らを依り所とし、法を依り所とせよ」という基本理念から釈迦本人も自身が根本的な信仰対象でなないと考えていたため、仏像のような尊像を祀るという習慣はありませんでした。しかし釈迦が入滅してからは、その教えの象徴として図画化されていきました。

元々仏陀像は釈迦の像に限られていましたが、仏教の展開とともにペルシャ文化やギリシャ文化の影響もあって偶像崇拝的な性格を持つようになり様々な像が作られるようになりました。

仏像の製法

金銅造:青銅を鋳造して形作った像の表面に鍍金(メッキ)を施す技法
鉄造:土型か木型をベースに鉄を主要な構成要素として鋳造した造像技法

塑像:土を造形材料とし、木芯に土を盛り付けて形作り最後に彩色または漆泊を施す技法

乾漆造:麻布を漆で貼り付けて形作り抹香漆や木屎漆を盛って細部を成型する技法

木造:木を彫刻して形作る奈良時代以降に主流になった最も一般的な技法

押出造:凸状の原型の上で銅板を叩いて像を浮かび上がらせる技法

 

日本の仏像の特徴としては、木を素材として多用している事が挙げられます。飛鳥時代にはクスノキが多く用いられ奈良時代になると乾漆を併用するようになっていきます。乾漆造とは、漆と木粉を練り合わせたものを盛り上げて像を形造る方法のことで、源流は中国の「夾紵:きょうちょ」・あるいは「𡑮:そく」と呼ばれた技法にあります。

 

脱活乾漆造

木製の芯木で骨組みを作り、その上に粘土を盛り上げて像の概形を作ったものに麻布を漆に麦粉を混ぜてペースト状にした麦漆で貼り重ねて像を形作り、その上に抹香漆または木屎漆を盛り上げて細部を形作る製法。

日本彫刻史上著名な作品が多く作られていますが、高価な漆を大量に用いる上に、製法にも大変な手間がかかるために平安時代以降はほとんど作られなくなっていきます。

 

木芯乾漆造
像の概形を木彫で作っておいてこの上に麻布を貼り、抹香漆または木屎漆を盛り上げて完成させる製法。
脱活乾漆造が中空であるのに対し木芯乾漆造は木芯が残ったままで麻布もさほど厚く貼らない事から、木彫り像の一部に木芯乾漆技法を併用して表情・装身具などの細部を形作った例も多く見られ、「木造」か「木芯乾漆造」かを分けるのが困難な場合もあるようです。

 

抹香漆(まっこううるし):麦漆にスギ・マツなどの葉の粉末を混ぜたもの

木屎漆(こくそうるし):麦漆におがくずや紡績くずなどを混ぜたもの



漆と仏具

日本の仏壇の歴史

日本で仏壇が祀られるようになったのは1300年ほど前に天武天皇の命によって始まったとされています。「玉虫厨子」は日本仏壇のルーツ的存在と言えますが、その頃は貴族や役人などのごく一部の人だけが祀っていたようです。

鎌倉時代になると禅僧たちにより中国の儒教の祭具であった位牌が日本に持ち込まれ、室町時代には浄土真宗の蓮如上人が多くの人に仏壇を祀るように勧めたため一般信者の間にも広がるようになりました。また「書院造り」という住宅形式が確立し「床の間」が作られるようになると、仏画を掛けたり仏具を置いて礼拝するようになりました。

仏壇が全国的に庶民に広まっていったのは江戸時代に入ってからの事です。仏教と先祖信仰や葬式が強く結びつき、江戸幕府の檀家制という宗教政策の影響もあって現在につながる伝統が確立したのです。

仏壇の製法

仏壇の製造は分業で行われています。行程は細分化されそれぞれに専門の職人が存在します。

塗り:刷毛による手作業で漆を塗っていく

箔押し:各部分の大きさに合わせて金箔を切り貼り付けていく

彫刻:人物や花鳥を手作業で彫っていく

蒔絵:特殊な細い筆を使って漆で絵を描きその上から金粉・銀粉・貝などを蒔いていく

金具:鏨(タガネ)を使って銅や真鍮板を打ち出して制作する

組立:彫刻・蒔絵・飾り金具などを仏壇に取り付けていく